パキスタン紀行
 2000年7月
カラコルムハイウエイをゆく
 

バスが停まると子供達が集まってくる
 
 
 ■7月24日

濁ったインダス川。段々畑と集落


    河童忌の水青き国赤い国

 パキスタン航空に乗るとテレビは雲わきたつ空が映し出され、コーランが流れる。スチューワデスはいるが、みんな無愛想で、写真とっていいかといったらようやく笑ってくれた。人に笑いかけてはいけないお国柄なのだろう。トイレに立ったとき、乗務員の男性が敷物を敷いてお祈りを終えるのが見えた。イスラムの国なのである。敷物の斜めはメッカの方角?
 つくづく日本の水は青い。空を映して青い。北京を抜けて見える河はどこも土色。土色にみえるだけなのだろうか。ゴビ砂漠の下の方を飛行機はずっと太陽を追っかけて行く。もうじきウルムチというところで、日に置いてけぼりをくって、下界が見えなくなったのは日本時計で夜11時近くになっていた。
 イスラマバードの空港に着くと、成田の空港で目立っていた登山の猛者(もさ)たちは山のような本格登山の荷物を持って散ってゆく。70歳代にみえるリーダーもいる。パキスタンは中国やアフガニスタン、インドを国境にK2をはじめ登山家達あこがれの地でもあるのだ。K2のKはカラコルム山脈のK。イスラマバードのバードは町という意味。文字通り、イスラムの町だ。イスラマバード泊


■7月24日


キャバレートラックははではで


      水浴の男ばかりや手を振るよ

イスラマバードから223kmいったターコットでようやくインダス川にあう。すごい怒濤のような大河だ。土色。カラコルムハイウエイはここからギルギットの手前400kmちかくまでインダスに沿っていく。
 カラコルムハイウエイの距離程には遠くカシュガル975km、ベイジング(北京)5425kmとある。東へ東へといけば、北京。中国と国境が開かれたのはついこの間1986年5月だ。冬は標高4700mのため閉鎖される。ハイウエイといっても牛や羊がとおる。自転車を漕ぐ旅行者がゆく。
 そこかしこで道路を直している。道はどんどん河から高度をあげ、くずれやすくなってきている。昨日の夜の雨でくずれたとか、1週間前、大きな崖崩れがあったとか、バスはしばし道路開通を待つ。パキスタンのトラックは日本のトラック野郎真っ青の満艦飾。荷台が運転席にロックンローラーのリーゼントのようにせりだし、御神輿さながらの極彩色。この装飾に車体以上にお金をかける。チラース泊


7月26日


ギルギッドはこんなかわいい子がいた。


   駆けてゆく氷河ギルギットの夏帽子

断崖絶壁のガードレールのない、崖崩れのつぎはぎだらけの道。バスの窓際はこわくて、下を見ることができない。それでもカラコルムハイウエイは断絶する事なくすすむ。かつて使われていた道シルクロードは今も使われているという。対岸の絶壁に刻まれているような一筋の道。
 インダスの濁りはこんなに高度があがっても土の色。流れ来る清流の青が土色と混じっていく。ここのインダスは魚も棲まない。船も行き交わない。怒りのように逆巻き泡立つ。「さーかまくなみをのーりこえて」こんな歌がなんども口についてでる。
 洪水の痕の近くにしぶとく家が建ち作物が作られている。急な段々畑に家が必死にしがみついて。橋の無い地域は籠のようなものに乗って渡っているのも見た。
 ガイドのアリさんがこのあたりは識字率15%、女の子は10%に満たないという。政府が学校を作っても、親がいかせない。
病院があっても宗教上だれもいかない。大人の女性はほとんどみかけない。男達はいつも木陰でたむろしていて、バスの東洋人を注視する。手を振ると破顔して手を振ってくれる。
 ナンガー・バルパット(8125m)、ラカポシ(7788m)の白い勇姿が見えてくる。このあたりは6000m以下の山の名前はないという。ギルギットの手前でインダスとわかれ道はギルギット川に沿い、今度はフンザ川に沿うようにして高度を上げる。
 バスが停まって、ガイドがガーネットをどうぞ拾って下さい、という。バスから降りると少年達が寄ってきて、暗赤色のガーネットや水晶をみせる。彼らから買わなくても、本当に道ばたにガーネットらしきものが落ちている。大きいものは7,8ミリ、5ミリくらいのものは容易にみつかる。ちょっと、夢中になる。
(フンザ泊)



7月27日


屋根に干した杏

    
   杏干す母子の額くっつくよ

 フンザは杏の里だ。4月は杏の花で満開になる。背の高いポプラの間にみえるどの屋根も今は杏色の黄にそまる。杏干しまっさかり。ここは1974年10月、ミール(藩王)制が廃されるまで、フンザ・ステート、パキスタン国内の自治王国だった。アリさんが明るい宗教というイスラムのイスマーイーリー派。修学率男女とも100%。女性は顔を隠さないし、籠を担いだ夫婦が歩いているのがみられる。それでも、お店番に女性が立つことはない。
 果物をたくさん食べ過ぎたせいかもしれない。眠れない。今日は中国との国境フンジェラーブ峠まで行く日。朝ご飯も食べられない。揺れるバスにどんどん気分が悪くなって来る。氷河といっても泥氷。鋸の刃のようなカールン・コー山の特異な姿も見る気が起きない。身の置き所無く、休憩に降りたスストのPTDCのホテルで休ませてもらう。とても高度4700mの地点まで行けそうもない。熱もある。気分悪く、腰も痛く眠れない。カーテンの隙間の空色のうつりかわりをただただ見ているだけの7時間。喉が乾き、水をひたすら飲む。フンザのホテルまでの2時間、バックミラーのないスピード狂の青年の運転は、悪路を悪夢のようにつっ走る。お気に入りの傘を休ませてもらったホテルに忘れて。(フンザ泊)

7月28日

絨毯を織る



つり舟小岩たかはしのおでむかえ

      ラベンダー抱く吊り橋ゆれどおし

 朝ご飯が少し食べられた食パンとナン。ちゃんと歩ける。
 やってきたマイクロバスには「屋形船たかはし」の文字。ラカポシを背景にカメラに収める。フンザから10kmほどいった、ガイドのアリさんの妹の家族が住むグルミット村を散策。杏や林檎、そして、このあたりはジャガイモの花が今はさかり。ラベンダーの花が道ばたによく香る。広場では男の子達がクリケットをやっている。バックは7000mの山々。100人以上の少年。こんな小さな村なのに?女の子はどこにいるのだろう。案内された家には大きな桑の木に実がなっている。薄緑色をしているが甘い。あまり食べないよう、自重する。頭をかがませて入る家の奥に若い女性が10人ほど集まって絨毯を織っている。赤ちゃんを抱いた女性もいる。リーダーの女性が指導をしている。女性はこういうところに集まっているのだ。
 丸太をよこに何本も渡してできている吊り橋を渡る。おっかなびっくり渡っている私たちを後目に、少年がすごい早さで渡っていく。彼は向こうに着くとまたこちら側に戻ってきた。吊り橋はこうやって渡るんだのパフォーマンスだったんだ。
 フンザのバルチット・フォート城はチベットのお姫様がお輿入れされたことによる、チベットとフンザの融合した生活様式が展示されている。日本語のガイドが「これは財布じゃなくて何ていうのかな」というので「巾着」というと「そうそう」とにこにこして『きんちやく』とノートにひらがなで書きこむ。『や』が大きく長い縦棒が左にかたむいた『や』。牢屋もあるこのお城の屋上は、囚人を突き落とす処刑場でもあって、はるか下にウルタル谷が見えるのだけれど私は覗くことができない。案内の青年の正しい日本語習得祈願に、ノック式のボールペンをあげる。後ろで、カチッカチッとノックする音が何度も階段に響き渡った。(フンザ泊)



■7月29日


ホテルの窓からラカボシ


      天井扇こっくりこっくり手紙散る

 母の誕生日がもうじきだ。エアメールの、絵はがきをホテルに頼むと、毛沢東の記念切手を貼ってくれる。
 フンザのホテルはかつてのミール(藩王)の敷地内に立つホテル。広いロビーにミール時代の写真や調度が並ぶ。家具のようなブランコ。古い映写機。水煙草。フンザのクロスステッチの刺繍が籠に飾られてとても美しい。大きな格子の窓からラカポシの白い姿が見える絶景。ここは開業してまだ日が浅く、あちこち建築中だったりする。部屋のドレッサーの扉の中は粗末な板張りの間に合わせみたいだったし、部屋の電話はあってもまだ開通しておらず、モーニングコールはドアノックだ。ときどき停電になるため、ろうそくがバスルームと部屋の両方にあった。ここで3泊するので洗濯をしたのだけれど、ウルタル氷河の濁った水のせいか、なんだか、白いものが白くなくなった感じ。ホテルのタオルのグレーは本当は白だったんじゃないだろうか。部屋はロビーと反対側にあって、こちらからは7000m級のウルタル山の隣にレディース・フィンガーという女性のとがった爪の形をした山が窓際に見上げる位置にある。夜空は満天の星。
 フンザの刺繍製品は身体障害者の修学基金がついている。グルミットで家庭訪問した家は娘さんを大学にやるようなお金持ちだけれど、奥さんは教育者で地域のボランティア活動のリーダーだ。パキスタンの中の地域格差の大きさにためいきがでる。 帰路カラコルムハイウエイ沿いにある仏教時代の線刻画をみる。岩を鏨(たがね)のようなもので仏塔や仏像が彫られている。みていると近所の女の子2人が走ってくる。気温は40℃。岩の照り返しはもっと暑くなっているだろう。
 この日の泊まりは行きにお昼を食べたインダスが目の前のベシャームのPTDCのモーテル。ここまでくれば、崖崩れで足止めという事態は免れるだろう。ああ、汗まみれにシャワーもトイレも水がでない。フロントにいうとすぐ水道係のおじさんがやってきて、修理中の水を必ず桶に受けとめて、直してくれた。パキスタンの人は水を無駄にしない。チラスのホテルでも、浴槽のないシャワーの下に大きなプラスチックの桶と小さい手桶がついていて、どうやって使うのかわからなかったけれど、これはシャワーを使うときは大きい桶にはいって水をためながら、さらに手桶で汲んで水を使い回すのだろう。さすがに桶の中には入れないけれど、水を無駄遣いしないよう心がけた。それにしても、電気がとても暗い。文字が書けない。天井扇がゆっくりまわって、もう、何をする気にもなれない。(ベシャーム泊) 

7月30日


ミシンが宝物のように


貴婦人のショールシルカップ遺跡かな

 今日はもう最後の日。日本の米のような粥を食べる。細長い米では粘りけがでないだろう。このあたりは日本の米に似た米を作っているという。朝、スコールのような雨。たぶん、どこか崖崩れがあるにちがいない。もうここまで来ているから大丈夫。雨は止んで、道ばたは乗り合いバスに乗る人が座り込んで車を待っている。バス停はなく、どこでも停まってくれる。かぼちゃの花が咲いて鶏が走る村。
インダスと別れてバスは高原のようなところを登っていく。高原にたくさんの蜜蜂の箱とテントがあった。蜜をもとめて移住していくんだな。途中、警官が怖い顔して乗り込んでくる。パキスタンは禁酒法の国。中国人がフンジェラブ峠を越えて酒を密輸してどこか売りさばくのではないかと荷物を検査するのだ。フンザのホテルは闇ルートのハイネケンが10ドルだった。他のホテルはノンアルコールのビールが200円くらい。瓶のコーラは80円。町では3,40円くらいで買える。飲酒禁止なんてどこまでも禁欲的な国である。勿論恋愛も御法度。
 タキシラはガンダーラ最大の遺跡だ。ジョーリアン遺跡の梁をささえるアトラスやライオンの写実性におどろく。広大なシルカップ遺跡、茅花の穂が揺れて。
 パキスタンのおみやげは、フンザの刺繍のクッションカバー。フンザ、フンザしたものの方がいいのに、どうしても地味目なものをえらんでしまう。それとシルバー製のふくろう。あと、ビーズの飾り。絵はがき。干し杏。胡桃の実。杏の種(アーモンドのような味)。
 夕食は1日目イスラマバードで泊まったホテル。プール付きの多分、いいホテルだと思うのに、蠅の多さはどうだ。こっちの蠅は手で払ったくらいでは逃げない。ゆうゆうと食べ物の広野を歩く。デザートには網のような布がかけてある。このホテルは日本の若い女性がコーディネーターとして働いていて、1日目、着いた部屋の果物のサービスがうれしかった。しかし、ここはノンアルコールのビールさえない。
 夜、10時35分北京経由で成田。



8月1日



昼のホテル


  結婚の知らせ藩王(ミール)の夏館

 微熱。地球の歩き方「パキスタン」は半分以上がトレッキングガイドになっている。「7000m峰を目の前に氷河を越える気楽な1日トレッキング」「カラコルムの大展望を求めてラシュファーリ・ピークヘ」「ウルタル氷河への3時間ハイキング」等々。日本の女の子2人の登山姿もあった。力に合わせて楽しめる素朴な山の旅がここではまだいっぱいある。夏のスイスは混んじゃってとか、チベットにお寿司屋があるとも。カイラスを早く見ておかなければ。
 ガイドのアリさんは32歳。誠実な好男子。11月に結婚する。「パキスタンでも5%の恋愛結婚ありますが、90%離婚する。
やっぱり、パパや親戚に見守っていてもらわないと…。」なぜイスラム教の恋愛結婚が離婚するのか、それは孤立無援、親戚中が離婚させるよう、あらゆる画策をするからだろうな。
 帰国したら、友人のすてきな結婚報告が届いていた。


8月12日


ナンガパルバット(8125m)
      夜のトマト命からがらからがらわらう

 アンヌ・フィリップ著「シルクロード・キャラバン」(晶文社)をよむ。1948年5月、彼女は中国のフランス大使館員だった夫と通訳としてチベット人のワヒッドの3人でまず南京からウルムチ迄飛行機で飛ぶ。そこからカシュガルまでトラック。カシュガルから綿布や絹織物を商う12人のキャラバンに加わって、馬やヤクに乗ってギルッギットをめざす。カラコルムハイウエイから見えたはかなげな絹の道を50年以上前、彼女は馬でたどった。ただただ、シルクロードをこの目で見てみたいという好奇心だけのために。キャラバンは駱駝を先頭に、驢馬,騾馬、馬の順の隊列を組んでゆく。峠越えにキャラバンの動物はほとんど傷だらけになり、足を折った驢馬をうち捨てていくような過酷な旅。金の延べ棒や食料を多量にもっての特権的な旅であるにしても。旅の間、彼女は一人になりたいとしきりに思う。どこへいっても、外国人を珍しがる役人やら、病人が列をなして薬を請いにやってくるのである。ミール時代のフンザやギルギットがやはり興味深い。「砂漠の清潔な埃」という彼女の感性。アンヌ自身が撮った写真も凄い迫力。ギルギッドまでの歓迎の旅のあと、カシミール戦争にまきこまれ、特権は通用しないどころか、イギリス人に見られ、命からがらペシャワール、カラチに逃げのびる旅でもあった。