越野商店の幻想俳句から
こしのゆみこ


夏氷皿百枚越野商店御中

 私の原風景は越野商店なのかなあと思う。私が保育園にあがる頃、開店した越野商店。ちょうど私のものごころがつく頃で私の記憶のはじまりとかさなる。父にとっては病弱な自分がいつ死んでも妻子が路頭に迷わないための越野商店開店で、家族みんな力を合わせてやる越野商店だったという話を姉から聞いた。まあそうはいうものの、父はけっこう長生きして、越野商店のあのものすごいよろず屋スタイルを確立していったし、私たちはぐうたら親不孝三姉妹でテレビばっかり見ていて、まじめに手伝わず母に叱られどおしだった。 越野商店がかき氷をやったのはほんの5、6年くらいのように記憶する。越野商店のかき氷の氷蜜が評判だった。父はいろいろな砂糖を試しては甘さの感じを吟味していた。ときどき私もてつだう。大きな鍋で蜜がとろりとしてきらきら光りだすまで、ずっとかき回しつづけるのだ。
 木でできた氷冷蔵庫を知っているだろうか。一番上に氷の塊を入れると冷気が下がって下の段に入れてあるジュースなどを冷やすしくみだ。かき氷用の氷もかなしいほどすぐ小さくなる。氷がなくなると炎天を私たち姉妹がかわりばんこで駅の近くの氷屋まで自転車で買いに行く。越野商店は坂の下の正面にあったから、氷を積んだ自転車が坂を下ってくるのが見えると、「あっ来た来た」とかき氷を待っているお客さんが手を叩いて待ってくれているのだった。野良仕事帰りのおじちゃんおばちゃんが店の前の縁台に座ってかき氷を食べていく。東向きの越野商店は午後から気持ちのいい日陰が出来た。網の繕いを終えた漁師さんがかき氷を食べに寄る。鍋をもってきて、これに入れておくれ、といってくる近所のおばさん。有線電話で出前まで頼まれるから、岡持まであった。「溶けたっていい。ちょっとになっていい」うんざりするほど遠いうちから頼まれたりした。まだ電気冷蔵庫が家庭に普及していない、冷たい物は越野商店しかないという時代があった。
 もうかき氷をやめて何年もたったある日、なにか捜し物をしに、物置に入った時、窓から入る日差しに光るもの。かき氷のガラスのお皿だった。お店で使っていたお皿は藍色の縁がレースのようにひらひらしていたから、それとは違う形のグリーンや青のガラスのお皿がまだ紐にしばられたままいっぱいあった。あの越野商店の縁台に座って、何人もの人がいっせいにかき氷を食べるというのだろう。父の商売はいつもこんな感じで、お店も物置も住まいも物であふれかえっていた。
 私は絵をやりたいとかいって越野商店から逃げるような思いで東京に出た。近況報告を書くと、父からすぐ手紙が届いた。いっしょに暮らしていたときはそんなに話すこともなかった父が、店のことや、自分の健康、近所のニュースなど日記のような文体で、葉書の裏表ぎっしり細かい文字で書いて来る。私が2週間ほど返事を書かないでいると「元気でやっているか、それではまた手紙をくれ」という手紙が届くので、それからずっと手紙のやりとりが続く。
 父の手紙は不思議だった。私が知っているはずの人や風景なのに、それが父の言葉で語られると知らない町の知らない人の話のようだった。海を見る父の思いと私の思いの海の色や温度が違う。小学校の桜並木や駅舎の藤棚、近所のお艶ばあちゃんのところの向日葵、白山神社のグミの木、私の目には見えていなかった近所の花が手紙の中で咲いてゆく。我が家には私の知らない蜜柑畑があって、器量の悪い夏みかんが送られてくる。なんにもない、私の目には何も映らなかった海辺の町が父の手紙の中で、浅蜊採りや秋祭の活気にみなぎっていた。 
 
 私が俳句をはじめたのはやっぱり父の影響なのだろうか。晩年父は俳句をはじめて、手紙に活力がでてきた。私は「魚の歳時記」「花の歳時記」「俳枕」など写真の美しい物を眺めては帰省のたびにプレゼントした。そのころの私は詩も俳句も短歌も短詩形のなかのひとくくりで、中でも俳句が一番遠かったかもしれない。私が俳句をやり始めたのは、絵、彫刻、陶芸への変遷が一段落し始めたときで、父が俳句を始めてから8年がたっていた。
 自分が作るなら、俳句。俳句にきめたと思ったときのわき上がる高ぶりを覚えている。今どんな俳句があるのか、どんな句を作りたいか、どんな句が気持ちに響くのか、自分の心を探すように、俳句全集を読んでいく。西東三鬼、富沢赤黄男、私の流れはこちらに傾いていく。金子兜太先生との出会いだった。私が海程に入ったのは誰かに勧められたのでもなく、たまたまでも偶然でもない、俳句ゼロ地点から自分で探して決めたことというのがちょっと自慢だ。私は自然に兜太先生の懐に流れ着いた。
 海程入門当初から、私の俳句はライトバースといういわれ方をされた。私はこの言葉のノー天気なニュアンスがきらいだった。句会で「稚拙」ともいわれたがこの方が納得がいく。実際私は稚拙ながら、思いこみの激しい「せつない」俳句を作っていた。作りながら、目が熱くなるのである。「夏氷」を思いうかべただけで目はうるうるなのだ。だから、「夏氷」の言葉さえあればよく、あとはあまりなにもいわないでおこうと抑える(抑えたつもりになっている)。その熱いキーワードは個人的なものだから、あまりにも感情を抑えすぎて、抽象的になり、一体何がいいたいのかわからない句になっていることがよくある。始末の悪いことに私は自分の句を客観的に判断することが出来ない。かろうじて、句会に出し、自分の筆跡が活字になってたくさんの句と混ざって、やっと気がつくことができるのである。よしあしはともかく思いはこんなにも熱いのに、出来た句がライトバースとかいう句になっているのだ。兜太先生のいわれる「平明で重い句」とちょっと違うかもしれないなあと思うけれど、先生は本当にやりたいようにさせて下さった。矯正をされていたら…私は海程的!な句を作ることが出来ただろうか。こてこての海程俳句。けっこうあこがれているのだけれど。

風船やみんな中流家庭です   峠谷清広
夏座敷父は友だちがいない こしのゆみこ

 93年、私はもうひとりのライトバース作家といわれる峠谷清広さんと「海程」新人賞を受けた。彼の句も泣ける句だ。私は峠谷さんとコンビのようにいっしょにいて、ほっと安心する。俳句はこんなにも素直でいいんだと彼は教えてくれる。
 私はこの時の新人賞受賞の言葉に、「俳人の体」になって言葉がわき上がるように俳句を作れるようになりたい、などという記述をしたが、私は「俳人の体」になれない体質であることがわかった。体内五・七・五感覚が音痴なのである。放っておくと散文ぽくなるし、いまだ指を使って数えるし、時には五・七・五の安定から逃れるように、字余り、字足らず、句またがりをやる。五・七・五の基準があってのずらしであるのはいうまでもないけれど、自然に出来てしまう句なんて信じない。句は意識して作らなくてはいけないと思う。俳句作りに狎れてはいけない。私は不器用だからできる、消しゴムの消し痕や、殴り書きの無駄な線が残るような俳句を作っていきたい。稚拙というのはプリミティブ絵画のルソーの絵のようで、私にとっては、なんだかうれしいのである。

  父上京そら豆の幸福さげて
姉家族白鳥家族食べてばかり
  母はひろってきれいに毬をあらう
  片陰ゆく兄のふしぎなつめたさよ

 父は体の調子のいいとき三回ほど上京した。一度は父の俳号の「魚籃」にゆかりの高輪台の魚籃寺へお詣りした。特別に魚籃を提げた曲線の美しい立ち姿の観音様を見せていただいた。東京を歩きながら父と私はずっと話し続けていた。電車に乗りながら、食べながら俳句のことや子供の頃のことや父の若い頃の話、家族旅行に行った時の話などなんでこんなに話がつきないのか不思議だった。父が入院したときの回復期、一日だけ病院に泊まった時のこと、父のベッドの脇の簡易ベッドで消灯になっても話し続け、看護婦さんに叱られてようやく父と私は眠りについたこともあった。 
 父から聞く越野商店の物語。母や姉や私が出てくる物語は、私が父の手紙の風景で感じたように、母も姉も私も私の知っている人物像とちょっとづつ違って不思議でおもしろかった。考えて見れば当然で子供の私が思う越野商店と、苦労の末開店した父の越野商店の思いが同じはずはない。母や姉の越野商店の思い出も不思議なほどそれぞれ違う。みんな、思い出したい越野商店を話しているのだ。私の越野商店の家族も私が思いたい方向にどんどん幻想化していく。父も母も姉も。そして、兄も弟も妹も。

  泣きし日もありし海にて子と泳ぐ  魚籃
 父を信じて大丈夫手足泳ぐ  ゆみこ

越野商店のつぎに私は何があるだろう。いつまでも子でありつづけてしまう私。私は去年7月からインターネットのホームページを開設した。毎日更新の俳句日記は5ヶ月続いたが、今は1週間に2、3回の無理をしないペースに落ち着いている。この日記とて現実なのか怪しいところだが、俳句に対して、これまでになく緊密なおつきあいをしていることは確かだ。