フルトヴェングラーと宇多田ヒカル

江頭 義之   

 夜半の電車の中、髪を金髪に染め見るからにロックやってます風オニーチャンが携帯電話で喋っている内容。「あのなぁ、曲、でけたで。‥‥ん? そうや、今から行くから聴いて。‥‥うん、あそこのパートも合わそ!」 私はとても微笑ましかった。前後の内容をそれとなく聞いて、彼が今、夢中になっている音楽というものに対して共感できる部分があるから‥‥。特に「曲が完成した」というところがいい。彼の情熱が微笑ましい。

 クラシックであろうがロックであろうが、音楽をしたいと思う気持ちの根源は同じだと思う。ただ、ジャンルにこだわらずにいたいと思っても、いざ「曲を作る」となると、やはりジャンルは歴然と出てしまう。

 宇多田ヒカルの昨年のレコード売り上げは600万枚という驚異的な記録だった。ご存じの通り、ポップス音楽業界は非常に商業的なもので成り立っており、特に最近はマスメディアの絶大な力で、ルックス、話題性、商業的戦略(いかにお金をかけているか、流行を先取り出来るか等)が凄い。しかし、それ以上に私が眼をみはるのは、その音楽業界を支える音作りの現場や「新しい自分達の音楽」を作ろうとする若い人達の活力である。いずれにせよ「流行る」という事は(何らかの方法で仕組まれているにせよ)万人に対して「普遍性」があるという事だ。これは事実であり社会現象です。

 話は変わり、たとえば、フルトヴェングラーがベートーヴェンの交響曲をベルリンフィルでズジャーンと鳴らす‥‥。うーん、とてもいい。それはまさにクラシック音楽にとって典型的なものです。月並な表現でいうと、時代を背負った音でありこれぞ「芸術」だ。 ううむ。いいんだけれど、私の個人的意見として言うと、クラシック音楽界全体の流れとして、(再現芸術である演奏のバリエーション以外に)あまり先が見えてこないのです。むしろ、もう全盛期は終わったのかと思うくらい。バッハもベートーヴェンもショパンも、みんなみんな偉い!でも、音楽の根本である「作曲活動」を考えた場合、現代のクラシックの作曲家はその同時代の人々からの共感度が以前よりかなり低くなっている様に思われます。クラシック音楽の性質自体がその傾向(既成の名曲の演奏重視)があるにしても、特に現代は、新しい作品への聴衆達の期待感が他の分野に比べてかなり少ないと思います。

 武満徹の曲をラーメン屋で聞きたいとは思わないし、いろいろな音楽、そしてその在り方があっていいのだけれど、歴史、文化的背景を考えると、創作活動をする作曲家達が「芸術」という名の専門的プライドとプロ意識、アカデミックな権威主義等を少しどこかに置いて、もっともっと同時代の人々が楽しみ感動する、現代に息づく曲を作ってほしいと思うのです。演奏家も然り。結局それが一番難しい事でしょう。でも、現にそういう流れが始まっている様です。 

 フルトヴェングラーと宇多田ヒカルを比べるのはナンセンスですが、「現代」という宇多田ヒカルの時代的背景とその活力を、私達はもっと学ぶべきだと思います。金髪のロックのオニーチャンの情熱を忘れず、大道芸人の根性を忘れず、いいものを生み出していきたいと思います。

(以上、西宮音楽協会の会報 [2000年春号] に掲載)